新年会の場所は、浦和でしょうか?(チャントラーって何処?) 日時は、ムリクリ都合付けますので (勤務先から推定1.5時間程度?の距離)
浦和・チャントラーに参加します。日曜日の夜とは、かなりおとなしく しっとりとなりそうだ。みなさんも参加表明しましょうよ。 閑話休題。明日から温泉。じゃあね。
レジNさんの要求もあったので、遅まきながらどくんごのDMをスキャンしてみました。 http://member.nifty.ne.jp/dokungo/images/dm_2000_12.jpg に、こっそり置きましたのでDM来てない方は見てみてくださいませ。 どいのくんも言っているとおり、内容的にはホームページとまったく同じです。
なんか世間は仕事はじめということらしいのに、まだまだ正月休みの真っ最中です。 箱根ってPHSが使える。まああたりまえか。仕事のメールもちょぼちょぼ来ていますが、9日まで基本的に処理しません。 あはは。
こちらでは、3が日という概念自体が存在しなくて、仕事は二日から始まりました。 連休明け気分というのはどこでも同じで、なんとなくけだるくてあまり気が乗らないので、ここにメッセージを書き始めてしまいました。 会社ではいろいろな国の人たちが入り乱れて働いているのがごく普通のシリコンバレーでも、私生活の面になるとやはり同じ国の人たちが集まる傾向があるようで、クリスマスや新年のパーティになると、主催者のナショナリティーが多数をしめることになってしまうようです。かくいう私の家でも小さな大晦日パーティを開きましたが、香港人女性の友人が来た以外は、近所から外国人を夫に持つ日本人女性が集まって来た形になってしまいました。職場のインド人同僚を誘ったのですが、他のパーティの約束がすでにあったりとかして、みんな都合が合わなかったようでした。 なにかにつけマイルドな味が好みの日本人と、強烈にスパイシーな味が好みのインド人は、パーティなどで互いに楽しめる食べ物を準備するのが大変で、その辺が単に都合が合わなかっただけという背後にはあるかもしれません。他のパーティでも多少それが影響していることでしょう。日本人はスパイシーもけっこう楽しめる(もちろん、たまにはですが)と思いますから、インド系のパーティに行ってもさほど困らないでしょうが、インド人たちは日本食の味付けはどうもマイルドすぎて駄目なようです。アメリカ暮らしの長いインド人はこちらで人気の「にぎり寿司」などには慣れていて、けっこう好きになっている人もいますが、他の料理になるとやはりスパイス不足を感じることでしょう。 炊きたてほかほかの銀しゃりご飯は、それだけでもとてもおいしいと思うのは日本人だけで、インド人にしてみれば「味がない」ということになってしまうようです。 やはり子どものころに慣れ親しんだ味覚というのは、強く体に染みついているものなんでしょうね。こちらに移り住んだ人たちも、それなりに自分の国の味をキープして生きているように見えます。ここに住む人々がそれをどう思っているのか、正確には知りませんが、インド人コミュニティーがあるおかげでおいしいインドレストランが存在し、中国人コミュニティーがあるおかげでおいしい中華レストランが存在し、・・・、という具合であるのはそれなりに楽しいと思っているところもあるように見えます。 ただ、パーティの様な仕事以外の場で交流が進まないと、どうしても文化的な面での理解の度合いが深まらず、仕事の場で入り交じっている割にはまだまだお互いが十分理解しあっているとは言えないように思えます。特に、インド人と中国人の2大勢力がもう少し交流しないと、シリコンバレーで多民族が協力し合っていると胸を張って言えるのは、単にビジネス面だけということになってしまうでしょう。政治的にもあまり仲のよくなさそうなこの二つの民族がシリコンバレーを通して新しい関係を築いていければとてもいいことでしょうが、それは言うほど簡単ではないということです。たぶん、そういう関係作りは時間がかかることで、特にインド人のハイテク労働者はここ数年にどっと押し寄せてきた感じなので、まだまだこれからと言えます。
> 20時からなら丸木美術館のイベントと掛け持ちは不可能ではない、と判断。 確かにそのとおり。 だから、困った。今回はあきらめようと心の中で整理してたのに。ぶつぶつ。 確かに同じ埼玉県ではある。 設定はもうこれでいくしかないような気がしますが、 ぼくが行けるかどうか? こ、困った。 結論出すのもうちょっと待ってください、と、相変わらず優柔不断なわたしでした。 P.S. この下の丸木のお知らせですが、わたしがなんだかんだと美術館にかかわり はじめてもう10年になります。 その間に丸木位里さんも俊さんも亡くなりました。 彼らの書いた原爆の図を展示し続けるというのは、美術館の大事な役割なの ですが、この美術館がいまを生き残っていくためにどうしたらいいのか、試 行錯誤を続けているのが現状だと言っていいと思います。 この企画展もその試みの一つです。
困った… けど、えーい、、、、 14日(日)20時~ でどうだっ。 場所はチャントラーっ。でどうだっ。 日曜だとちょっとおとなしめだけどなぁ。まーしょーがない。 20時からなら丸木美術館のイベントと掛け持ちは不可能ではない、と判断。 日時場所とも、数日は変更可です。 参確もよろしく。
1月14日の丸木の予定は以下の通りです。 ==以下、転載== 企画展「Piece For Peace」のお知らせ Date: Sat, 23 Dec 2000 11:42:41 +0900 From: "Maruki Gallery For The Hiroshima Panels" To: "Maruki Gallery" 丸木美術館では12/19より、今年最後の企画展「Piece For Peace 2000」がはじまり ました。 1/14には出品作家が集まって作家トークを行います。皆さんのご参加をお待ちしてお ります。 関連URL http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku-00pfp.htm Piece For Peace 2000 会期 2000年12月19日(火)~2001年3月31日(土) 作家トーク 2001年1月14日(日)午後1時より 平和という、ごく簡単な言葉のイメージはどんなものだろうか。戦争状態にない、 穏やかに幸せに生きられる世界。ともすれば画一的に語られるこの言葉が、現実にと らえようとしたときには様々なイメージを持つことに気づいた。 ここに集ったのは、「平和」に直結したテーマを持った作家ばかりではない。自民 族、他民族の直面する紛争から、「平和」が特別に意識されないものまで、取り上げ られたテーマは多様である。さまざまな来歴を持つ作家たちが、それぞれの現実の中 で生み出したイメージは、しかし必ず「平和」というものにつながっていく。ここに 提示された作品が、そして作家自身がそうであるように、誰もが平和のためのかけら を自分の中に見いだすことができるはずだ。 平和とは、どこかに用意されている巨大な理想などではない。Piece For Peace― 無数のかけらが輪郭を重ねながら作っていくものである。そしてそのかけらとは、私 たち自身に他ならない。 ARTIST PROFILE 金丸賀也 Kazuya Kanemaru 私の作品に決まった形はない。 意図的にそうされているわけでもない。 私が生まれ育ってきたここで、自己のリアリティを見つめると、とめどなく溢れだし 羅列されるものだった。 最近、それは一種の鏡だと気がついた。 東京芸大卒、パフォーマンス音楽グループを結成。内外で活動。ソニーアートビジネ スオーディション特別奨励賞受賞。だれでもピカソアートバトルチャンピオン。NY ニューワールドアートセンター、横浜ランドマーク等にて個展。現在、「LITTLE JAPAN」「ラブミサイル」など多数のプロジェクト作品進行中。 徐日文廷 Suh Min-Jeong 1972 韓国釜山市生まれ 1995 弘益大学版画科卒業 1996 多摩美術大学大学院版画科入学 1998 多摩美術大学大学院版画科卒業 個展 1996 KARINスペースⅡ(京橋) 1997 ギャラリーイグレック(国立) 1998 ART BOXギャラリー(銀座)、 平安画廊(京都) 1999 六義園画廊(銀座)、 横浜美術館アートギャラリー 豊田直巳 Naomi Toyoda フォトジャーナリストとして民族問題・難民問題・日本の現在などをテーマに世界各 地を取材・撮影。 「ここに登場する人々は大手メディアではなかなか報道されにくい対象かもしれませ ん。しかし彼らが世紀末と呼ばれる現在も、20世紀の『負の遺産』とも言うべきもの を背負わされた人々であることは記録し、また記憶にとどめなければならないと思い ます」 廬興錫 Ro Fung-Sok 1955 日本で出生、東京で育つ(在日コリアン3世) 1982 東京造形大学造形学部彫刻科卒業 卒業後、都市設計デザイン事務所にてパブリック・モニュメント・プロジェク トに数多く携わる 1981~97 彫刻グループ展、 在日コリアン美術家による団体展にて毎年作品を発表。 1995 個展『現代を思ふ 土に想ふ』 (銀座・ぎゃるり しらの) 1999 アルン展―在日コリアン美術展出品 (京都市美術館) 2000 個展『失ったのは記憶、されど行く』 (銀座・ギャラリーオカベ) 朝鮮大学教育学部美術科及び民族学校講師 スミコ・アフマッド Simko Ahmad 1968年クルディスタンの都市スレイマニア生まれ。サラハッディン大学理工学部卒。 大学卒業後からNGOで働き始め、イラクの弾圧を逃れて欧州に亡命。 94年の来日以後NGOピース・ウィンズ・ジャパンの建築技師としてクルディスタン、 アルバニア、コソヴォ、インドネシアなど世界各地の紛争地に派遣され、難民のため の仮設住宅や病院・学校・橋の建設、ライフラインの構築などに携わる。 86年より絵画制作に取り組み、独学で油彩技法を習得。絵画、詩などの作品や講演を 通して精力的に平和を訴えている。 98年の東京ストライプ美術館「クルド人画家15人展」で彼の作品は幅広く紹介され た。 第3回光州ビエンナーレ「芸術と人権」展など、多くの国際美術展に出品。 尾関立子 Ritsuko Ozeki 世界人口の増加に伴い、社会のボーダレス化がすすみ、人ひとりの価値がとかく希薄 化していく時代性の中のその揺らぎをとらえようとするとき、それは私一個人のアイ ディンティティを探すことから始まる気がしている。 さまよい続ける心の在処として。 ==転載ここまで==
ここまで来たら、浦和サイドで一気に決めるしかないでしょう。 14か20ですか? ただ、言いにくいんだけど14も20もだめなんです。(とほほ) 14日は丸木美術館、20日は土曜日なのに職場の新年会なのでした。
大晦日しています。卵の殻剥き、芋の皮剥き、買い物、味見・・・ --- そういえばかたり氏と連絡とれました。もうれんこんのハードディスク内容を CDに焼いてあるので、送ってくれるとのこと。 mmmのファイル形式のままだそうだけど、うまく扱えるのだろうか。